こんにちは。三澤です。
30年以上前に出会った本、村上春樹の「風の歌を聴け」を久しぶりに読み返す。
読むたびに異なる印象を受ける不思議な小説。
初めて読んだのは十代の後半で、その時にはその断片的な文章や、明確なストーリーのない展開が新鮮で魅力的だった。
再読するたびに、春樹さんの処女作であるこの作品の持つ魅力が、じわじわと染み込んでくる。
何も起こらない物語の魅力
一人称の語りで進む『風の歌を聴け』。
主人公である「僕」は、1970年の夏、大学の休暇で故郷に戻り、親友の「鼠(ねずみ)」や、ジェイズ・バーのバーテンダーと過ごす。
そこでの会話や些細な出来事が淡々と描かれていく。
明確な事件はほとんど起こらない。
でもこの「何も起こらない」ことが、逆に読者の心に引っかかる。
村上春樹の小説には、「喪失」と「孤独」というテーマが繰り返し登場する。
主人公の「僕」は、どこか現実世界との接点を持ちきれず、物事を傍観するような姿勢をとる。
彼の語るモノローグには、哲学的な問いや、文学・音楽・映画への言及が散りばめられていて、彼自身の思索がそのまま読者に流れ込んでくる。
村上春樹の文体とリズム
『風の歌を聴け』のもう一つの魅力は、シンプルで独特のリズムを持つ文章。
この作品は、レイモンド・チャンドラーやカート・ヴォネガットの影響を強く受けていると言われていて、短いセンテンスや皮肉交じりの言葉遣いが印象的。
特に、ヴォネガットの「少ない言葉で多くを語る」スタイルが色濃く反映されているように思う。
村上春樹の小説は「翻訳文学のようだ」ともよく言われる。
まるで英語の小説を日本語に訳したような、独特のリズムを持っている。
この文体が、軽やかでありながらどこか寂しさを感じさせる要因になっている。
「鼠」というキャラクターの存在
『風の歌を聴け』を語る上で欠かせないのが、「鼠」というキャラクターの存在。
鼠は裕福な家庭に生まれながらも、その生活に満足できず、漠然とした不安や閉塞感を抱えている。
主人公とともにバーで酒を飲み、人生について語り合うものの、解決策が見つかるわけでもない。
「鼠」は、その後の『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』にも登場し、やがて主人公と決別することに。
本作の時点では、彼はまだ何者にもなれず、何をすべきかも分からず、ただ漠然とした未来への不安を抱えている。
そんな彼の姿に、若い人たちが共感する部分も多いのではないかと思う。
青春の断片と喪失感
『風の歌を聴け』は、明確なストーリーや派手な展開がないにもかかわらず、読み終えた後に不思議な余韻が残る作品。
それは、おそらくこの小説が、人生のある一時期を切り取った「青春の断片」でありながら、同時に「喪失」を描いているからだろう。
何気ない会話、夏の終わり、そして何者にもなれないまま過ぎていく時間——それらが、読者の中にある過去の記憶と結びつき、懐かしさや切なさを呼び起こす。
デビュー作でありながら、すでに村上春樹の世界観が確立されていることにも驚かされる。
読み返すたびに新たな発見がある作品。
『風の歌を聴け』は、人生のどこかのタイミングでふとまた読み返したくなる、そんな一冊なのかもしれない。
あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
村上春樹, 「風の歌を聴け」
変わりなく過ぎていくように見える毎日でも、昨日とまったく同じ1日はない。
出会った人とはいつか必ず別れがきて、自分も周囲も絶えず変化していく。
いつも心に留めておきたい言葉。
それではまた。
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