「シェフの自己実現フィレステーキ」

「シェフの自己実現フィレステーキ」

ショートストーリー/AkihisaSawada作

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そのレストランで、彼女はいつもの席に通された。
メニューを開いてページを繰りはじめてすぐ、彼女は手をとめた。
彼女は目を細めて1点をじっと見つめた。
10秒近くも見ていたあと、そのままほかは見ずにメニューを閉じて、給仕頭に返した。

「シェフの自己実現フィレステーキを頂くわ」
「かしこまりました。前菜やデザートはどうなさいますか?」
「おまかせするわ。ワインも、合うものを選んで」
「かしこまりました」
「久しぶりね」
「ええ、よく覚えていらっしゃいましたねお嬢様」
「忘れるはずがないでしょう」

小さなそのダイニングには、テーブルが四つ。他には客はなかった。
大正時代に建てられた古い洋館だった。
東京の下町にあるそれは、七十年前の空襲を逃れ、今も建築当時のままの外観を保っていた。
寄木細工の床はよく磨き上げられ、仄暗い照明を鈍く反射して美しかった。

「最後に”シェフの自己実現フィレステーキ”を食べたのは、私がまだ十六のときだったわ。誕生日に父に連れられて来てもらったときに」
「ええ。結局あれ以来、そのメニューを載せたことは一度もありませんでした。もう十五年になります。早いものです」

二人の間に短い沈黙が降りた。それは過去を共有する者同士の、優しく親密な沈黙だった。

「それでどうなのかしら?十五年ぶりの、シェフの自己実現フィレステーキは」
「お嬢様。今夜のものは格別逸品でございますよ」
彼女はうなずいた。

「素材は新鮮で申し分ありません。もちろんソースは一流です。世界中、どこに出しても恥ずかしくない最上級のものと自信を持っております」
「でもそれだけでは、ただ一般的な一流のフィレステーキに過ぎないんじゃなくて?」
彼はうなずいた。
「彼の自己実現は、そこにはあるのかしら」

「もちろん、それだけでは“シェフの自己実現フィレステーキ”にとって必要十分条件とは言えません」
彼女はじっと、彼の目の深くを見つめつづけていた。

「十五年前、彼の『シェフの自己実現フィレステーキ』はある意味で完璧でした。
そして今夜の彼のそれも、それに勝るとも劣りません。しかし同じではありません。どちらをお好みになるかは、お嬢様が実際にお召し上がりになって、お決め頂ければと存じます」
「ねえ、わたしはあなたの意見を聞いているのよ」

再びしばしの沈黙があった。彼女の視線をまっすぐに受け止め、やがて彼は「お嬢様」と言った。

「それは本当に個人的な、私的な問題に過ぎるように思うのです」
「私は今、あなたと個人的な話をしているの」
彼女の目は穏やかだったが、強固で揺るぎなかった。
「シェフの自己実現フィレステーキについて、個人的な見解以外の何があるというの?」

彼は少しだけ目を細め、慎重に言葉を選びながら続けた。
「私はかつての彼の料理がとても好きでした。他に比べるもののないぐらいに。それはほかには換えられないものです」

それまでよりも少し長い間があった。
それは彼と彼女のあいだだけに作ることのできる特別な緊張感のある静謐だった。
彼はひとつ大きく息を吸って、それをゆっくりと吐いた。

「彼はようやく、ふたたびここへ戻ってくることが出来ました。ようやく彼は、彼自身ともう一度つながることが出来たのです。そのために、十五年の時間が必要でした。
彼にとってのフィレステーキは、以前とは違うものになったかも知れません。あるいは彼にとって、それはすでに失われてしまったものかも知れません。しかし、私は今の彼のフィレステーキがとても好きですよ」
彼女は目を伏せて、テーブルの上に両手を重ね、しばらくその指先を見つめていた。

「彼は気づいたのだと思います。彼の自己実現フィレステーキを、もう一度焼くべきなのだと。なぜなら、それが彼にとってすべきことだからです」

外では音もなく雨が降り続けていた。
「どうなさいますか?」
「シェフの自己実現フィレステーキをお願い」
「かしこまりました」

店内に静かに流れはじめた曲に、彼女は顔を上げた。

「この曲は?」

「モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』です。彼の好きな曲です。」
給仕頭はやさしい微笑みを浮かべて答えた。
「ラヴェル自身は、この曲を作った当時はあまり満足していなかったようです。美しい曲ですし、一般受けはしましたが、音楽家たちからの評価はあまり高くありませんでした。ラベル自身もそう思っていました。しかし彼は晩年になって、この曲がとても気に入っていたようです」

彼女はその繊細でやさしいピアノの音色に耳をすませた。

「実はシェフには、お嬢様がいらしていることを伝えてあります。彼がこの曲をリクエストしました。シェフに会われますか?」
「そうね。久しぶりに会ってみたい。でも、彼もそう望んでくれるかしら」

彼はにっこりと頷いた。そしてキッチンへと向かった。
彼女はナプキンを手に取り、二つに折って膝の上でたたんだ。

 

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澤田 明久
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